地震災害を伝える唯一の情報源は鯰絵だった
横浜が開港したのは1859(安政6)年ですが、それより4年前、1855(安政2)年に、世にいう「安政の大地震」が起こっています。マグニチュード6.9と推定される直下型地震の凄まじい揺れに襲われた江戸では、民家の倒壊が1万4千戸、死者1万人以上の甚大な被害が出たといわれています。しかし、当然ですがその惨状を伝える役割を持ったメディアといえば、当時は瓦版くらいしかありませんでした。
そこで登場したのが「鯰絵」です。この「鯰絵」ブームのおかげで多色刷りの木版印刷の技術が高まったという話もありますので、本欄では印刷とも関わりがあり、当社が進める防災への取り組みにも通じる「鯰絵」の謎に迫ってみようと思います。
鯰絵とは?
そもそも「鯰絵」とは、地下のナマズが暴れると地震が起きるという江戸時代に広まった俗信をモチーフに描いた錦絵のこと。地震後の世相を風刺しながら、さまざまなバリエーションで描かれたのが「鯰絵」です。毎日のように新しい絵柄のものが出まわり、400種類以上もの「鯰絵」の風刺画が出版されたといわれています。その背景には1840年代に実施された「天保の改革」によって、贅沢品とみなされた浮世絵が規制されたこともあり、芝居絵による収入減に陥った版元がここぞとばかり、「鯰絵」の大量発行に走ったということもあったようです。
様々な鯰絵の登場
その火付け役になったのが「お老なまづ」。地震のあった次の日に版元から依頼され、その翌日には版木を完成させるという離れ業。歌舞伎の「常盤の老松」の語りと唄をもじって、地震について語っています。絵柄は三味線を弾く女とナマズの格好をした人。被災した町名などを記して売り出すと大評判になりました。その後、大地震を起こして懲らしめられるナマズや、謝罪するナマズなど、悪役設定の「鯰絵」が登場するかと思えば、世直しの象徴として描かれたり、崩れた土蔵を修復するなど、善玉としても起用されたり、中には地震除けのお守りとして描かれた「鯰絵」もありました。
現代のナマズと地震の関係は
ナマズといえば、警視庁の緊急交通路の目印の看板を始め、いまだに地震防災のキャンペーンなどにたびたび使用されていますが、災害をもたらす役柄にもかかわらず愛嬌のあるものが多いのは、「鯰絵」からずっと受け継がれてきた不思議な魅力があるからかもしれません。ちなみに、ナマズの地震予知能力に関する実験はこれまで何回も行われ、ナマズが敏感な生き物であることで知られていますが、ナマズが騒いだから地震が起こるとは限らないので、地震予知には使えないという
ことのようです。