横浜開港のためにつくられた「横浜道」

コラム

戦後の日本を支配したGHQにより建設が支持され、1957(昭和32)年に国道1号線のバイパス道路として、前線開通したのが「横浜新道」ですが、この道ができる約100年前、幕末の横浜開港時に造られた「横浜道よこはまみち 」、通称「しんみち」という街道のことはご存知ですか。本記事では野毛印刷の創業地である野毛とも関わりのある横浜道について検証してみました。

横浜道が造られた時代

1858(安政5)年に日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、翌月6月に開港し、横浜村(現関内地区)に開港場を開きました。この時、東海道と開港場を結ぶために造られた道が横浜道です。東海道筋の芝生しぼう村(現浅間交差点辺り)から、袖ヶ浦と呼ばれた湾の方向に向かい、海岸沿いに湿地帯を埋め立てた岡野、平沼を経て戸部村へ。途中、新田間あらたま橋、平沼橋、石崎橋(現敷島橋)の3つの橋が架けられました。戸部村では海沿いから険しい山道に向かい、野毛山が開削され、現在の野毛坂付近を頂点とする切り通しの道ができました。さらに横浜道から逸れて現在の紅葉坂方面へ向かった場所(現県立青少年センター付近)には神奈川奉行所が設けられました。さらに横浜道は、野毛山の切り通しを抜け、現在の野毛坂交差点から左に折れて坂を下り再び海岸沿いに。野毛橋(現都橋)、大田橋(現吉田橋)を架けて開港場へ続く全長3.6km、道幅は約3間(約6m弱)程度。ひなびた漁村がこの道により一変したと思われます。この道路は開港の3ヶ月前に検察が始まり、2ヶ月程度の突貫工事で完成したといわれています。

明治時代の野毛坂周辺

その後、明治時代に入ると横浜は港を中心に目覚しい発展を遂げることになりますが、高台で港が一望できた野毛坂付近には、生糸の販売や機械の輸入などで財をなした市内の商人たちの別荘が立ち並びました。野毛坂の交差点には、明治時代の豪商・平沼専蔵邸跡の石積擁壁が残っています。現在の野毛山動物園周辺区域も、明治の豪商、茂木惣兵衛や原富太郎が別荘を所有していた場所でした。この頃、当社の創業地でもある野毛町一帯は交通の要所、繁華街として人が集まるようになり、1872(明治5)年に、日本最初の鉄道駅「横浜駅(現桜木町駅)」が完成します。

横浜駅についての過去の記事はこちら「工事が永遠に続く横浜駅は日本のサグラダ・ファミリア?!」

明治の末から大正

そして、明治の末から大正にかけて、その旧横浜駅から大船に向かう鉄道の延伸計画が図られました。といっても現在の根岸線ルートではなく、現在の桜木町駅から曲がって大岡川沿いに走るルート。その鉄道のために旧国鉄が所有していた予定地に野毛印刷の創業地がありました。しかもルートはそのまま進み湘南電気鉄道(現京浜急行)の黄金町駅と合流する予定があったようです。しかし計画は1923(大正12)年に関東大震災が起こったことで立ち消えに。

横浜道について検証するなかで、当社の創業地と現在の営業本部がある他に幻の鉄道ルートがあったことを改めて認識しました。

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