横浜と「地震学」の間に深い関わりがあった

コラム

横浜と「地震学会」との間には深い関わりがあるようです。
横浜を拠点とし、「大地震対応マニュアル」を展開する当社にとっては大変興味深いところ、ということで「地震学」についての歴史を紐解いてみました。

地震観測の開始

地震国の日本は、歴史上頻繁に地震が発生していますが、観測機器がない時代の地震は、古文書や災害記念碑などに残っている記録から判断するしかありません。震度については「小地震」「大地震」といった大小を表した記述や、「未曾有」や「前代未聞」などの記述、建造物の倒壊などの程度を表す記述を震度推定の材料としていたようです。
明治維新を迎え、西欧の先進諸国に追いつくことを目指したわが国は、産業発展と欧米文化の吸収を目的として、多くの研究者や科学者、技術者を招きます。
また、政府は1872(明治5)年に函館の気候測量所で日本最初の気象、地震観測を開始。
1875(明治8)年には、気象庁の前身である「東京気象台」が設けられました。

地震学会の創立

そんな中で、1880(明治13)年2月に横浜地震が発生しました。M5.8程度でしたが、この地震は外国から来ていた研究者を驚かせ、世界初の地震学を専門とする学会「地震学会」が創立します。つまり、横浜は「地震学会」創立の地ということになります。
この時、中心にいて日本の地震学の基礎をつくったのが英国人の鉱山技師、地震学者で工部大学校(東大工学部の前身)教授のジョン・ミルン(John Milne)。
ミルンは地震が起こった際、揺れた方向や、家の被害、壁のひび割れの状態、体への感じ方、地震の前後の地鳴りなどについての質問票を、外国語新聞「ジャポン・ガゼット」の新聞購買者に配布し、地震被害を集約。しかし成果は得られず、地震計による科学的な調査の必要性を感じ、地震研究の学者を集め組織的な研究を進めることになります。

近代地震学の父 ミルン

その後ミルンは、耐震建築の研究を行うとともに、1894(明治27)年に「ミルン式水平振子地震計」(現在国の重要文化財)を制作。「近代地震学の父」と呼ばれました。ミルンは日本人堀川トネと結婚し、夫人を伴い1895(明治28)年に英国に帰国。英国ワイト島で世界規模の地震観測を続けますが、1913(大正2)年に死去。その後、トネ夫人が日本に帰国したため、夫妻の墓が函館にあります。

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