グラフィックデザインの歴史を検証してみた Vol.3図案・工芸、商業美術の歩み

コラム

明治後期以降に続々と登場する図案家

明治中期になると日本の工芸・図案教育も盛んになり、1887(明治20)年に設立された東京美術学校(現東京藝術大学)は、1896年(明治29)年に図案科を設置。その後、東京高等工業学校(現東京工業大学)、京都高等工芸学校(後に京都工芸繊維大学に統合)などにおいて、絵画教育の流れの中で工芸・図案の教育が行われました。
明治時代後期になるとアール・ヌーヴォーの項でふれた藤島武二や北野恒富の他に橋口五葉、和田三造、杉浦非水らが図案家として先駆的活動を開始。それまで画家の余技であった図案が専業化していき、グラフィックデザイナーとしての礎を築きました。

ウイリアム・モリスからソール・バスまで

一方海外では、グラフィックデザインを芸術品と区別する書籍「印刷デザイン」が英国で出版され、詩人、デザイナーで「モダンデザインの父」と称されるウイリアム・モリスは、グラフィックデザインの技術を使って生計を立てていきたい人たちのために、グラフィックデザインを専門業とするためのマーケットを作りました。
また、1919(大正8)年、ドイツに設立された造形学校「バウハウス」により、建築、工芸、写真などとともにグラフィックデザインは大きな影響を受けました。その後1937(昭和12)年、バウハウスがアメリカのシカゴに移り「ニュー・バウハウス」が開校。バウハウスの教育理念を継承し、アメリカにおけるデザイン教育の中心になりました。
1940年代に登場したのは、グラフィックデザインに革命を起こした男といわれる、アメリカのソール・バス。映画のポスターやロゴデザインなどが、特に優れた作品として、デザインの世界を大きく変えました。日本でもソール・バスがデザインしたロゴマークや包装紙などは、現在も使われています。

大正から昭和へ、印刷技術を駆使した図案が登場

日本では大正から昭和にかけて、バウハウス流のデザイン教育に影響を受け、美術学校や中等教育機関の図案教育がますます盛んになりました。
一方、1914(大正3)年に日本に伝わったオフセット印刷は、1919(大正8)年に4色カラー印刷が可能な製版法をアメリカから導入されると写真を使用したデザインも登場しました。昭和期に入ると、この印刷技術を駆使したポスターやチラシ、新聞、雑誌など広告におけるグラフィックデザインが表現を競うようになります。
大正期から昭和初期にかけて登場した山名文夫は、日本のグラフィックデザイン史の第一人者と知られています。独特の線画によるイラストレーションや、美しくバランスのとれた配色などで日本の新しい美意識を創り出しました。

戦前、戦中に登場した2つのグラフ誌

華やかな広告美術が開花する中で、1937(昭和12)年の日華事変の勃発を境に日本は戦時体制に。この時期にグラフィックデザインが活かされたのは、山名文夫、亀倉雄策や、写真家の名取洋之助、土門拳など錚々たるメンバーで作られた、対外宣伝(プロパガンダ)のためのグラフ誌『NIPPON』。戦時中には当時陸軍参謀本部の直属出版社に入社した原弘がディレクションを担当し、やはり対外宣伝のグラフ誌『FRONT』が出版。写真は木村伊兵衛、編集の林達夫らとともに、極めてクオリティの高いグラフ誌を創りあげました。皮肉なことにこの時期、この2誌の制作に携わった人たちの力によって、日本のグラフィックデザインが大きく飛躍しました。

TAG:歴史 芸術 

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