「日本」がついた町名といえば、東京と大阪の日本橋が有名ですが、横浜の中区にある「日本大通」も数少ない「日本」がついた町名です。横浜市民にはお馴染みの通り名でもありますし、みなとみらい線に「日本大通り駅」ができたことで以前より知名度も上がったと思われますが、他の横浜の町名と比べて、まったく印象の違う町名がなぜつけられたのか、歴史を遡って検証してみました。
道路名としての「日本大通」
古くは久良岐郡横浜村だったこの地は、1859(安政6)年の横浜開港で外国人居留地と定められました。現在横浜スタジアムがある横浜公園がある場所には、当時港崎遊郭がありましたが、1866(慶応2)年に大火によって焼失。これをきっかけに、大規模な区画整理が行われました。1870(明治3)年に英国人の土木技師で日本の灯台建設に携わったリチャード・ブラトンの設計により、遊郭跡地に公園が建設され、そこから象の鼻波止場を結ぶ街路が造られました。やがて1875(明治8)年に、外国人と日本人が共同で使用することを前提に造られたため彼我公園(後の横浜公園)と名づけられた公園と、3m幅の歩道、9m幅の植樹帯を設けた、幅員36mの通りが誕生。日本初の西洋式道路は、日本の近代化政策のシンボルとして明治政府によって「日本大通」という道路名をつけられました。その後、関東大震災の復興整備によって幅員は22mに。歩道+植樹帯は7mと削られました(近年の再整備により13.5mの幅員を確保)。
町名としての「日本大通」の誕生
1879(明治12)年に外国人居留地内に町名が設けられ、加賀町、薩摩町、越後町などとともに町名としての「日本大通」が誕生。その後山下町に統合された後、昭和初期に再び「日本大通」の町名として新設されました。2004(平成16)年のみなとみらい線の開通と同時に、「日本大通り駅」が誕生。計画段階で仮称としてつけられていた「県庁前駅」を覆して駅名に採用され、「県庁・大さん橋」が副名称としてつけられました。
ちなみに、慶応2年の大火について調べると、火元は現在の太田町1丁目辺りにあった豚肉料理屋。この大火で関内地区の日本人居留区の3分の1、外国人居留区の4分の1を焼失したといわれています。大火の後、外国人たちが幕府に要求した都市計画には、公園の避難場所としての活用も含まれていたようです。そしてそれが生かされたのが1923(大正12)年の関東大震災。地震とともに火災が発生。約5万人もの市民が公園に逃げ込んだといわれています。
さて、そんな日本大通りでは毎年さまざまなイベントが開催されています。
ぜひ、一度足を運んでみてはいかがでしょうか?