横浜でたどる日本の新聞の歴史

コラム

横浜と印刷についての歴史を紐解いてみると、日本の日刊新聞の歴史抜きでは語れません。

4部からはじまった新聞

1864(元治元年)、幕末に通訳、貿易商として活躍したジョゼフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、外国の新聞を翻訳・編集し、横浜で出が記の邦字新聞「新聞誌」を創刊。翌年「海外新聞」と改題し、定期的に刊行しました。一般大衆を対象とした新聞は半紙を2つ折り、4つ折にして冊子風にまとめたもので、発行当時の購読は4部だったそうです。

現在に近い新聞の誕生

明治に入り、当時の神奈川県令(知事)井関盛良は欧米の新聞事情を知り、原善三郎や島田豊寛など、横浜の富商たちに近代新聞の必要性を説き、新聞創刊に向けて資金面での協力を要請します。やがて1871(明治4年)1月28日[旧暦1870(明治3)年12月8日]に、横浜活版舎で印刷された日本語の最初の日刊新聞「横浜新聞(後に横浜毎日新聞)」が創刊されました。半紙に手書きだった幕末の新聞に対し、洋紙の両面に記事を活字で印刷し、紙面を欄で区切るという、現在の新聞とほとんど変わらないものでした。

印刷企業の始まり

この新聞創刊に印刷で関わったのが、長崎でオランダ活字を手本に活字製造に成功した本木昌造。幕府の通詞(通訳)として勤めながら、製鉄、海運といった方向へと活躍の場を広げますが、幼いころから洋書に接する機会が多かった昌造は、西洋の印刷物が持つ文字の美しさに魅せられ1855(安政2)年に活版印刷所を創設。1869(明治2)年には、日本で初の民間活版業、新町活版印刷所を創立。これが近代における印刷企業の始まりとされています。
そして横浜へ活字、印刷機一式と門人を派遣し、日本の日刊新聞の発刊に努めました。

因みに横浜には2つの新聞発祥の記念碑があります。1つはジョセフ・ヒコが「海外新聞」を発刊した居館の跡に「日本国新聞発祥の地」の碑が。場所は中華街、関帝廟の近く。そしてもう1つは、「横浜毎日新聞」の「日刊新聞発祥の地」の碑。こちらは中区北仲通の横浜生糸検査所(現・横浜第二合同庁舎内)構内に建てられていましたが、現在は非公開で、同庁舎内に保管されています。

 

新聞の歴史についてさらに詳細を知りたい方は、『新聞博物館』がおすすめです。
日刊新聞発祥の地である横浜に2000(平成12)年にオープン。
新聞の歴史についてや新聞がつくられるまでなどの展示を閲覧できるほか、パソコンを使っての新聞の製作体験などを楽しむことが出来ます。
新聞博物館公式HP:http://newspark.jp/newspark/

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