カラフルで雄大な近代花火は横浜からはじまった

コラム

花火のはじまり

日本の花火の起源は、1543年、種子島への鉄砲伝来とともに火薬の製法等の研究が行われ、武器として使われた火薬がやがて花火という観賞用の娯楽として使われるようになります。
当時の文献によると、伊達政宗や徳川家康が花火を見物したというのが、古い記録とされています。その後花火は、鍵屋、玉屋による江戸の両国川開きや、三河、信州、越後などを中心に盛んになっていきました。

カラフルな花火の誕生

江戸時代の花火は「和火」と呼ばれるうす暗い色のものでしたが、現在のようなカラフルな「洋火(西洋花火)」と呼ばれる花火は、文明開化の横浜に大きな関わりがありました。

徳川家康の地元三河で勘定方を務めながら、火薬製造に従事していた平山甚太が、火薬製造の第一人者でした。明治維新を迎えるとともに甚太は、文明開化の横浜に進出し、明治のベンチャービジネスの世界に身を投じます。当社の本社近く、現在の中区太田町4丁目で旅館を構え、煙突工場を開業。さまざまな金属を使ってカラフルに発色するように工夫するなど「洋火」の研究に没頭します。やがて、1877(明治12)年11月3日、天長節の日に横浜公園で日本初の総数300発の西洋花火大会が開催されました。

1879(明治12)年に米国のグラント前大統領が訪日した際、打ち上げられた甚太の花火が褒め称えられ、これを機に米国独立祭の花火を任され、欧米へ花火の輸出も行われるようになりました。平山甚太の花火の技術力は高く評価され、米国の専売特許が与えられ、日本人としての米国特許第1号取得者になっています。

ベンチャー精神の旺盛な甚太は、旅館の経営と花火屋だけでなく、両替商も営み、大衆娯楽にも手を出し、後に政界入り果たし、財界、教育界にも貢献するというマルチな才能を発揮しました。

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